さかなとかえる

徒然なるままに

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夢を持つことへの違和感が少しわかった

先に述べておくが、夢を持つこと自体が嫌いなわけじゃない。

 

夢を持てという、押し付けのような無言の圧力が苦手なのだ。

 

「成功した人は、大きな夢を持っていた。だから成功した。」

こう言われるし、まぁ本田圭佑イチローの話を聞いていたら理解できる。

 

でも、昔っから苦手で仕方ない。私は将来のことを真剣に考える時間よりも、予測不可能な将来をどう生きるか考える時間の方が有意義だと思う人間なのである。

 

①相関関係と因果関係の違和感

もし仮に、夢を持った人とその後の成果みたいなものが相関関係になるのであれば、わかるかもしれない。

でもまぁ、本田が活躍している裏でベンチやベンチにも入れない方が圧倒的に多い。

そこの違いは、夢の差なのだろうか?

 

犯罪者の9割というかほぼ全員が普段水を飲んでいるらしい。だから水は犯罪を発生させるから危険なんじゃないか?という話と同様で。

 

成功者の9割は大きな夢を抱えていた。だからといって、大きな夢を持った人が成功するか?それはまた別の話であると感じる。

 

②結果とその背景の違和感

夢は、その背景・理由とセットでついてくる。

その背景・理由というのは原体験に通ずることが多い。

「なんとなく、バンドでメジャーデビューしたい」と思う人もいていいとは思うが、

それよりも「音楽を届けたい」「昔好きなバンドを聞いて感動したから」というほうがなんだかそれっぽいし(重要)、ぶっちゃけ応援もされやすいのである。

ビジョンを語るスタートアップもそうだ。投資を受けたければ、応援されたければ未来の姿を示す必要がある。

 

何かそういう体験があって夢を持つことは非常にいいことだと思うのだが、

それ抜きにして「自分の夢・ビジョンを作れ」といきなり言われて、

過去を思い出して無理やり作るから

言い方が悪いが下手な生き方をする人はたくさんいるし、それに困惑する人も多少なりとも出てくるのである。

 

だから大事なのは、

「夢を持つこと」であるのかもしれないが、それは

「夢を無理やり作ること」ではない。

ビジョンや夢を必死に持ちたい・持つことにあこがれるのなら、

必死に生きる。

その体験を通じて、何か成し遂げたいことができるのではないだろうか。

もしも何も見つからなかったら、それでいいのではないか。それはそれで幸せである。

 

そう思って仕方ないのである。

 

机上で完璧なビジョンができるのであれば苦労しない。

 

成し遂げたいことの有無や、その大きさによって人を測るのではなく、もっと本質的な必死さや体験にフォーカスして関わっていきたい。