忙しいのは、無能の証明。
という持論を数年持っている。持っていた。
もちろん学生といっても何かしらのサークルやらバイトをやっていて。
何かしらプロジェクトを回しているんだろうなぁ。
やることあるんだろうなぁ。
というのはわかる。
そのうえで、だ。
来週発表だから~
卒論があるから~
明日学会で朝早いから~
みたいな、「忙しい」ということを理由にイベントを蹴ったり、あるいはこちらが聞いていなくても忙しいというアピールをされるのである。
小さなコミュニティで飲みに行こう!となった時、
「その日別の飲み会があるから~、ごめん」だと、直接的で納得するのだが、
「明日朝早いから~」は納得できない自分がいる。
前者は、日程組むのが遅かった自分の責任というのが少なからずあるからか?
後者はなんで許せないんだろうか??
と思ったときに、直接的に予定はないけど「忙しい」から参加しないことが好きじゃないことに気付いた。
で、自分は構築主義で自己責任論な考え(社会学やってるにもかかわらず)なので、
そんなん忙しくする自分のスケジュール管理の問題やん、無能め。
って思ってしまう。
ここまでは数年前から変わっていないんだけど、
最近気になったことがあって。
「忙しい」ことは、本質的な逃げ道ではないのでは?
ということにようやく気付いた。本当何やってたんだろう。
上記の例だと、そもそも小さなコミュニティで飲み会をすることに価値を見出せなかったり、メンバーが不満だったり。
優先事項が低いだけ。
つまり、「忙しい」とはじかれるということは、そもそもそんなに魅力がなかったんじゃないかってこと。
周囲の状況は知らないので比較できないが、割と自分は「忙しい」からということで断れることがある。覚えているくらいはある。
それは、結局自分や自分達と時間を過ごすメリットがなかったり、まぁ魅力がないということだ。それを言うのははばかられるので、気を遣って「忙しい」と言うのだ。
ひどいかもしれないけどこれが現実だ。
っていうことで、「「忙しい」といつも言う人を無能呼ばわりする」人が一番無能だ。
という結論に現在至っている。
自分は無能さを確認するために「忙しい」という言葉をあえて使うことがあるが、本当に忙しいときは「忙しい」すら言えないくらい忙しかったりする。
うん、「忙」という文字がゲシュタルト崩壊してきたのでこのへんで。