さかなとかえる

徒然なるままに

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研究や論文はどうあるべきかっていう話。

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今大学院で研究をしているのですが。

今回はその研究・論文に関する話です。

 

本当に自分のゼミ、研究を指導していただける教授を尊敬しています。

頭の回転が速すぎて。クリティカルで、どんな論文にも批判してくる。

土日も研究室に引きこもるワークイズライフ。本当に尊敬しています。

 

教授はパワフルで、何にも動じずに見知らぬ人に話しかけたり。

パワー論理を提唱したり。(二分法の破壊)

そんな教授に自分の研究も助けられっぱなしなのですが。

 

大学4回生の時にストリートミュージシャンに関する卒論制作中、こんなことを言ったのです。

 

路上ライブでの警察の取り締まりが邪魔、みたいなミュージシャンの意見をそのまま論文の結論にするのはつまらない。ミュージシャンが言語化できない「何か」を示して、ミュージシャンが「ああそうだ、それを言いたかったんだよ」というものを見つけなさい。

 

そう。こんなことを言ったのです。当時の私には意味がわからなかったです。

しかし・・・なぜか昨夏のインターンを通して、わかるようになってきました(笑)

ミュージシャンが気づいていないけど言いたい考え・意見を代わりに生み出すのは、実は一種のプロダクトアウトなんじゃないかと思うようになりました。

なるほど確かに!っていう感じです。

そういうのを目指します。修士でこそ。

 

 

それとは逆に、自分や教授のゼミが嫌いな論文っていうものははっきりしていまして。つらつらと述べていきます。

①とりあえずアンケートたくさん取って相関関係を因果関係のように見せる論文

→「だから何だよ」以降が説明できないパターンです。

有名な話だと小学生にデータとって「朝食を食べる」ことと「学校の成績がいい」ことの相関がとれたとします。これだけのデータだと朝食をとると成績がよくなるようにとらえられますが・・・実は「朝食を食べない」のではなくて「朝食が食べられないくらい貧しい」環境のことが多いです。比較的貧しい家庭の方が教育にかける量・質ともに落ちるので、貧しい家庭の子は成績が比較的低い。そんな家庭の子が無理矢理朝食を食べても成績がよくならないのは目に見えています。

相関を調べることそのものが目的ならいいですが、「相関がとれている、だから何?」があくまで推測になってしまうことが問題かと思います。あと教授曰く「当たり前のことを言うだけなら意味がない」とのことです。(さっきの例なら、階級と成績の相関が出て考察したとしてもそれは当然っちゃ当然)

 

 

②初めから主張したいものが決まっていて、それの根拠付けを探してつけた論文

→「研究」と「実践」を混合する人のパターンです。客観性に著しく欠ける点が問題かと思います。「今の政府/自治体はこんな問題がある」みたいな課題意識からスタートして、そう仕向けるかのように調査したり文献を読んでいくパターン。これはすぐに論破されそうですが・・・

 

 

③アンケートやインタビューをして、彼らの意見・主張をそのままに肉付けした論文(マーケットイン)

→プロダクトアウトの逆ですね。「住民がこういう問題で困っているから政府はこうすべき」等。ミュージシャンだったら、「もっと自由に路上ライブしたい」「生活が苦しいので助けてほしい」等でしょうか。ステークホルダー全般を考慮しないといけないのに、一方的に寄り添うのがいけないのではないでしょうか。

 

 

④「興味あるから~」等の理由で選んだテーマで、客観的な立場に立てない論文

→「自分が音楽系のサークルだから音楽系サークルの学生を調査する」のような、自分が関わっていたコミュニティ関連の研究をする人にありがちではないでしょうか。これもまた客観的でないからよくないとは思いますが、いい点もあるかと。あらかじめ自分が関わっていたり興味があるものなので、専門的知識が深く、より情報がつかめる点があるかと思います。

 

 

これらを除いたものが、あるべき論文像でしょうか。いや研究素人なのでわかりませんが。

(そもそもまぁ、先生陣も学生にそこまでのレベルを求めていないと言われたらそこまでですが・・・)

自分がやってしまいそうなのは③。

テーマ設定は珍しいとは思いますが今まで全く興味がなかったのでやってみたい、という感じなので④とは違うかと。そのため実際に路上ライブしたことがないので完璧にミュージシャンの気持ちが・・・わかるかわからないかがわかりませんね。そこは欠点だと思います。しかし、比較的中立にステークホルダーたちを分析できるかと思います。

 

ということで調査に行ってきます。