身も蓋もない話をすると、物事の現象には、100%自責も、100%他責も存在しない。
その、グラデーションの中で現象が起こっている。
ただ、また身も蓋もない話になるが、その捉え方を自責と捉えるか他責と捉えるかは自分自身であり、他責に捉えがちな人はちょっと周囲から見るともったいないなぁ、と思うのである。
責任のグラデーションの捉え方
・天気予報で晴れだったが、雨が降ってきて風邪をひいた。
・天気予報で雨だったが、傘を忘れて風邪をひいた。
この2つには、グラデーションがあることはわかるだろう。
前者は、「天気予報」というエビデンスと結果が異なっていた。
後者は、「天気予報」というエビデンスと結果が一致していた。にも関わらず、自分の行動で風邪をひいてしまった。
これを、平均的な人であれば前者を他責(天気予報のせい)、後者を自責(自分が忘れたから)と捉える人が多いだろう。
前者は、他責9割、自責1割
後者は、他責1割、自責9割
と言ったところか。
捉え方は自分自身
ただし、違う考えをもつ人も一定数存在する。
前者を、「天気予報を信頼したが、もっと複数の天気予報を調べておけばよかった」とリサーチしない自分自身の責任にする人。
またその逆で後者を、「課題のことで頭がいっぱいで傘を持っていく意識がなかった」等、天気予報ではない、また違う対象の責任にする人。
このように、科学的に自責か他責かもあるが、自責と他責かを決めるのは、究極的には本人次第になる。
他責フレーズは、受け手の耳によくない
さて、他責とする言葉を自然と、無意識のうちに発する人は結構いる。
自分自身も、かつてそうだった。
・今日は調子がよくないから・・・
・昨日、寝るのが遅かったから・・・
・〇〇が、こう言っていたから・・・
・会社が、こうだから・・・
・上司が、反対するから・・・
・日本が、こうだから・・・
実際にこう言うのは簡単だ。
また、本音でそう思っていても、現状では思想の自由があり、なんら問題ない。
ただ、こう考えた背景もよくわからない人が聞くと、「この人は他責にする人なんだなぁ」と思われてしまう。
印象として、あまりよく思わないのである。
なので、もしこのようなフレーズを思いついても、独り言にするか、他人に受けられないような形で発するのが良い。
選択をしたのは自分自身
調子がよくない理由を細分化すると、それを行ったのは自分自身ではないか?
会社が〜と言っている人は、その会社を選択して働いているのは自分自身であるし、日本は〜と言っている人は、海外へ行けばいい。
それを選択したのは、自分自身なのである。
他責フレーズをよく話す人は、自分の人生を生きていないも同然であると思う。
問題のボトルネックを諦めずに見極めて、その問題を解決できるために自分にはできることはないか?と思う姿勢は、意外と評価される。
まぁ、他責なことを言いたくなる気持ちはわかる。プライドが高いと特に、自分の選択を正当化したくなるものだ。これを選択した自分は悪くない!もしくは、選択させられた!という心理だろう。
ただ、それを言い続けると、自分を肯定し続け流ので、成長の余地がなくなる。
自分ごと化して物事を見てみると、改善点がいくつも見つかる。こうして、成長して、できないことができるようになっていく。
成長の機会という意味でも、また受け手からの印象という点においても、グラデーションはあれどできるだけ自責側のグラデーションに持っていけるようにし続けていきたい。