考える鱒

モラトリアム文系院生のつぶやき

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教える側のエゴ

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色んな組織に属したり、また属することができずに横から見ていたりしているのだが、

「力のない人に限って、部下・後輩に何か教えたい欲求が強い」と経験則的に感じる。

 

考えられる理由としては、

・自身が力がないため最前線で戦えない、だから後方としての役割を持とうとする(=居場所を作ろうとする)

・力がないと、組織内で他を見下そうと無意識的に働く(→レベルの高い人とつるまない)

 

この辺りだろうか。

自分は大学のカヌーという組織ではまさしくこのタイプの人間で、今思えば競技以外のことの方が燃えるぐらい本質を外れたゴミだった。

 

力のある人は最前線でエースとして役割を遂行し、力のない人は下を見て育てたり他のことで役割を補完する。

これは一見、リカードの比較優位の原則を考えるとそれぞれ最適に分担していいように思える。

 

ただまぁ、じゃあ力のない人の教えを受けて育った部下や後輩がちゃんとできるかというと別になる。

力のない人は自分や周囲を客観的にとらえることが苦手な傾向にあると、これも経験則として感じる。

だいたいやってしまいがちなのが

・甘やかす

・勝手な持論を布教させる 

・ただ反対のことをやる 

  →自分自身はこう教えられてきたけどダメだったから逆にする の意

 

この辺りだと思う。少なくとも力のない自分はやってしまった。

別にこれは部活とか仕事だけではなくて、

家族(親や兄姉から教えられること)や、学校の先生と生徒でもだいたい同じに思う。

 

教える側のエゴって120%あると思っていて、

自分のコピーとまではいかないけど、同じようなマインド・テクニックを伝えることで

組織内の自分自身の居場所を確立・拡大させることができる。

そう、教えるということは居場所ツールの一種なのである。

教えられる側の部下・後輩はそんなことも認識せずに上司・先輩の影響を受けていくものだから、かわいそうなものである。

たいていのメンターは、部下のことを思って教えてなんかいなくて自分のために仕方なくやっているか利用しているかのどっちかだ。

 

力のない人が例えば甘やかさずにスパルタでやるというような、認知的不協和を乗り越えてもいいのだが、それなら最初からスパルタで力のある人が教えておいたほうが数倍マシだ。

 

逆に、教えられる側もちゃんと客観的に見たほうがいい。

上司や先輩は、本当に自分の特性を理解した上でアドバイスしているかどうか。

教える側の出世のために使われていないか。(そしてそれがなぜかまかり通るから辛い)

「教える」ための「教え」になっていないか。

力のない上司や先輩の居場所を作る・増やすために教えられていないか。

 

 

・力のない人が役割的に教える側に回りがち。

・そいつらの教えは基本的によくない、なぜなら「力のない人」バイアスを排除できないから。

・そもそも一方的に教えたいというものがエゴそのもの。人の相性も含め考え、「教えない」ということが「教え」になる選択肢も存在するはず。

 

なんか知らないけど、後輩入ってきたら教えたい!とか人事やりたい!とか言い出す、もうすぐ2年目になる同期たちを見て思ったことをつらつら書いた。