先日、ようやく修論の発表を終えたので机周りを片付けた。
とにかくプリントが多い。レジュメとか。
学部のやつはほとんど捨てたんだけどなぁ。。。
机から大量の、フィリピン調査関係の資料とか出てきた。B4~M1にかけてのやつ。英語の論文よく読んでたな、今はさっぱりわからない。
ゼミノートも発見。3年前ぐらいのやつかな??
日本にいる時の英語ディスカッションは全く話せなかったのに、いざ現地に着くと英語をある程度はしゃべれたからそんなもんかもしれない。
割とプロジェクトとしては時間をかけたフィリピン。当時のゼミは15時開始22時終了とかザラだった。ブラックゼミとか体育会ゼミとか言われていた。
これから社畜になろうとそこそこやっていけそうな自信がついたのは感謝かもしれない。万歳ブラックゼミ。
もちろんこの後捨てました。
さてと、下の写真はうちのコース共同のパソコン。4台あるんだけど、自分がよく使うやつはデスクトップを多部未華子にしていた。きゃわいい。
この隣のパソコンは吉高由里子だし、さらにその隣は新垣結衣だったりする。よく使う人の好み。俗物的な環境。
うちの文系院生ライフは基本的に拘束時間とかないのでフリーダム。週1しか来ないような人もいる(自分なのだが)し、土日も含めほぼ毎日来てる人もいる。夕方になるとだいたい帰るけど。
マイペースだね。それぞれ学会前だったら忙しかったり。論文締め切り前でもそうだけど。うん。
なんか見知らぬ?先輩が残していった謎の本とかいっぱいあるし、今の先輩も意味わからないような本、古本が大量に置いてあったりする。
院生室にティファールや加湿器、コーヒーメイカーは完備。院生室の壁が薄くて寒いこと以外は、普通にオフィス環境はよかった。
ゆるく仲良く、共同体という感じ。コミュニティというか。
居場所を作る的なものはあった。どことなく飲み物やお菓子に恵まれていて。かといって冷蔵庫のチョコをうっかり食べてしまうと持ち主が怒ったり。
周囲の仲間、院生に関しては、割とみんな社会不適合者感がある。なのに、自分よりも恵まれてない人という社会不適合者のことを学問するからちょっと滑稽だったりする。
お世話になったゼミの先生たちはみんな賢い。一時の感情に流されない、いい意味でドライな意見を連発。本当に鋭い、クリティカル。先生たちとも仲よく飲めたのはよかった。生産性ない話もたくさんしたけど。
だいたい机は片付けた。プリント類はほぼ捨てた。本は今度一気に持ち帰って買い取ってもらおうかな。
ピケティ本体は後輩に売ったのでピケティ入門だけが残った。
なんか知らないけど、ゼミで読んだ『国家と歴史』がないことに初めて気付いたぞ!!
借りたのなら返してくれ。パクられたかもしれない。
結局大学院で何かを得たかというとそうでもない。
そもそも役に立つということ自体がナンセンスだとも思う。
何か新しくて斬新な成果を出せるほどのプレイヤーでもなかった。学問でもスポーツと同じで、今までの研究=過去の記録、になる。ある分野でこれまでにない新しい成果を出そうと思ったら、野球でいうシーズン本塁打数の記録を更新するくらいやばいことなのだ。最多勝の記録とかもうどんだけ更新されてないか。それに近い学問だってある。学問、研究者というのは日々そういう戦いなんだなぁ、というのを知った。勝負の世界なのだ。
それを前提に自分の研究を振り返ると、人の意識を社会的にとらえるアプローチを行った。人からは面白そうといわれたが、まぁ分析はつまらない。
ある程度の方向性を見えてきて、教授にめちゃくちゃ助けてもらってなんとか論文という形にしたが、難しかった。意識について勉強していると、じゃあその意識はどこから来たんだ?と考える。そうすると結果無意識にたどり着く。意識してしまうという無意識の反応を研究したい。そうなると脳科学的アプローチか、心理学的アプローチ(フロイトとか?)になってくるだろう。ドクター(博士課程)に仮に進むとしたら、上記2つの学問を強いて言うならやりたかった。
こんな感じでモラトリアムしていたわけだが、特にこれからも何かに執着するわけではない。「いい人生を送る」ことにも執着してないし、「人生一度きりだから自分らしい人生を送る」ことにも執着しない。自分からしたらそんなことどうでもいい。これまでモラトリアムしていたのも、特に意味はなく暇つぶしに近い感覚だったりする。
不必要な意識をそぎ落として、ミニマムまで削った先にあるものはなんだろうか。
それを見つけることすら、執着しない。