自分は学部時代から社会学を専攻して、修士論文でもストリートミュージシャンをテーマにした社会学をフォーカスした。
なんだけど、実は修士の研究でテーマにしたい題材があと2つあった。
それが、「アイデンティティ」と「女子力」について。
女子力といっても言ったらジェンダー的要素になるね。
ストリートミュージシャンの研究も進めるとアイデンティティやジェンダーが絡むのでまぁ結果よかったんだけど。
女子力の考察はまた今度にして、アイデンティティの話でもしたい。
本文の定義としては、アイデンティティ=帰属意識、と思ってもらえたらいい。
特に自分はスポーツ観るのが好きで、(やるのは苦手)、そこがアイデンティティに興味を持ったきっかけになる。
オリンピックは盛り上がるイベントで自分は好きだ。でもそのニュースではボルトみたいな世界的超スターでない限りは日本人選手やそのライバルばかり取り上げられるし、日本人が活躍するとなぜかそれにさほど関係のない「日本人」というだけの人たち(一般人)が喜ぶ常識?みたいなのが疑問に思った。
サッカーのワールドカップの方がひどいか?(ひどいという言い方は要改善)。
日本代表の試合があると渋谷のスクランブル交差点に人が集まり、ただただ盛り上がるしなぜかその状況が生中継とか、ニュースになる。
そこには「同じ日本人」というアイデンティティが無意識のうちに存在している。まぁ騒ぐ連中は日本代表を言い訳にして騒ぎたいだけなのかもしれないがww
「日本人」というアイデンティティは、「日本民族、日本語、日本国民」みたいな要素を満たしていることであり、極めてナショナリズム。
オリンピックは国同士のある意味戦争だからね。資源や土地の争いが、メダルの争いになっただけで。
スポーツをとりまくアイデンティティは日本人というくくりだけじゃない。
高校野球の時期になると、地方出身勢がやたらと自分の出身都道府県をチェックして、1回戦勝っただの何年ぶりだとか言い出す。
そりゃ自分の母校だったら応援したくなるのもわかる。出場高校の近所で、グラウンドで練習していたところを見ていたり、応援していたのならやはりわかる。
だけど、母校でもなく今出身地にいないのに応援するというのがあまり理解ができない。
先ほどのオリンピックに戻ると、オリンピックなどの国際大会で健闘した日本人選手の出身地と重なると、それを何かと自慢したりもする。
これは「都道府県アイデンティティ」とでも呼べばいいだろうか。
「都道府県アイデンティティ」はスポーツに限らない、むしろ秘密のケンミンShowはそれを題材にして長くやっている番組だし。
関西に住んでいると、滋賀と京都の言い合い(琵琶湖の水止める云々の下り)をよく聞く。要するに「近隣でどっちがすごいか」競争。冷静に考えてみれば滋賀県民というだけで琵琶湖の水を管理できる権限はないはずなのだが、こうした謎の出身地の対抗意識はバラエティ番組のテーマにもなっている。まぁテレビ番組の方が対立を煽っている感じもあるんだけど。
色々思うままにつらつらとタイピングしてきたけど、自分は「その人のもつアイデンティティは何か?」という問いと、「そのアイデンティティはどこから生まれたのか?」を研究したかった。
性別/血液型/家系/年齢/学歴/出身地/国籍/宗教/言語//人種
・・・上記よりももっとしょうもないことも含めて、無意識のうちに人はアイデンティティを形成している。
アイデンティティを持つことにより時には安心感をもたらすこともあるし、またある時にはアイデンティティのせいで苦しむ(疎外される)こともある。モチベーションにもなるし、それに縛られることにもなる。
滋賀と京都の争いのように、違ったアイデンティティというだけでもっと真面目な対立をすることもある(滋賀と京都の争いが真面目じゃないみたいな言い方はやめろ!という反論は受け付けませんww)。民族紛争とか、イスラム国もそれだし。
アイデンティティは、良くも悪くも呪いだ。
人間はなぜか他者や周りと比べるのが好きなので、人間の個性や能力が均等にならない限りは、アイデンティティもなくならないのは明白のことである。
なぜならアイデンティティという概念は、相対的な他者を意識して初めて形成されるから。
「日本人」という概念は、「日本人以外の人(=外国人)」がいるから、日本人であることを強烈に意識するんだ。もし世界中に日本人しかいないのなら、日本人というアイデンティティはこれほど強くない。というかそもそも日本という国家が存在してない気がする。
自分が「地球人」というアイデンティティを持つ人は少ないのでは?
まぁこれは、UFOとか宇宙人という概念があるからまだありえそう。
さすがに自分を「宇宙人」と思う人はいないと思う。なぜなら「この宇宙以外に空間なんてない、だからもちろん宇宙の外には人はいない」という意識(刷り込み)があるから。相対的な「他者」がないから。
結局は何らかのアイデンティティは個性がある限り、生きている限り持つことになる。それにどう付き合っていくかは、自分次第と言わざるを得ない。