考える鱒

モラトリアム文系院生のつぶやき

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ジェンダー論が嫌いなたったひとつの理由

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大学院の研究で、「女子力」を中心にしたジェンダー論の研究もいいんじゃないかと思っていた時期があった。もちろん他の候補もあった中での一つだ。

結局、それはなくなって現在論文発表準備に追われている、ストリートミュージシャンを中心にした社会学の研究になったのだが。

 

ジェンダー論が嫌いだったのが、研究をやめた理由の一要因にはなった。

今でも好きではない。

 

ちなみに、自分は男性だ。

 

嫌いな理由はたった一つで、「研究者の性別バイアスがかかるから」ということ。

たったこれだけである。

 

それは研究者だけではなく、研究を評価する側にも言える。

研究者が男性だから~、女性だから~と見られて、建設的な議論ができない。

 

だいたい現在のジェンダー論は、社会的性差に注目して、是正すべきという論調だ。

高校の現代社会とかで習ったのではないだろうか、男女雇用機会均等法とか、国会議員の女性比率とか、女性の管理職比率とか。

 

自分は女子力というのをフィーチャーしようとした。女子力とはつまるところ、女性誌や広告のキャッチフレーズで「女子力を高めなければ恋愛市場で競合(他の女性)と戦っていけない」という暗示をかけて料理・美容や健康用品を売りつけるマーケティング手法の一種ではないかと一個人男性視点では思っている。

女性は特に周囲の女性(+好みの男性)を気にする生き物なので、「周りがやっているなら」と同調するか、それすら疲れて女子力という「古臭い価値観の女性らしさ」に違和感を覚えて反発する人かの二極化が起こっているように見える。

まぁちゃんと研究していないのでわからないのだが、

仮にこのような結果で論文を書いたところで、著者が男性であるというのがわかると

「男性に女性の気持ちはわからないわ」

「男性だからそんなこと言えるんだよ」

みたいな風に女性から反発を受けるわけだ。

ジェンダーって社会的性差を分析する素晴らしい社会学だと思うのに、その議論は発言者が「男性か」「女性か」を見る、きわめて生物学的性差の壁がある。

ジェンダー論はジェンダーバイアスを見つけて男女関係ないものを目指すのに、議論は男女というバイアスで対抗するから進まないんだ。

そりゃ男性が女性になれるわけじゃないし、その逆もそうだ。

異性の気持ちは完全にわかるわけじゃない。同性の気持ちどころか、時には自分自身の気持ちさえわからないのだから。

ゼミなんかでジェンダーの話になると、必ず女性vs男性の構図になる。女性側の論理性なんかを指摘しても、「男性だから」と一蹴されてしまい一方的な壁を作られてしまう。自分も無意識のうちに壁を作っているんだろう。

壁を作られると反論する気もなくなるので、終盤はたいてい主張を聞いているだけ。だから解決しない。解決しないと、堂々巡りになる。つまらない。嫌いになる。こんな感じ。

こんな夫婦喧嘩はしたくないと心底思う。大学院ライフで得た一番の収穫かもしれないレベル。

 

院の同期の女子は、「ジェンダー論やりたいんだけど、女性がやっても女性の権利を~みたいな結論になるだけだから面白くない」と言っていた。女性側にも性別バイアスがかかるから、男性だけじゃなくて女性ですらやりたくない人が増えるので進まない。

 

でもここで一つ疑問が生じる。

ジェンダーに限らずどの学問でもある程度バイアスはかかるんじゃね?」

大学院のゼミではどうだったか。

地方格差のゼミだと、田舎出身と都会出身で対抗するのかと思えばそういうわけではなかった。

国籍の違いはどうだろうか。文系大学院は留学生が多いのだけど、中国人・韓国人・日本人で構成される国際関係論のゼミで戦後問題や外交について話したときは、確かに国の違いで意見が食い違った。

でもそれは学んだベースの違いからくる新しい視点だったりするので、「お前日本人だからだろ」というような対抗ではなかった。留学生の中国人や韓国人は、「日本という国は好きじゃないけど日本人はいい人」という風に、国家と人を分離して評価していた。

 

ジェンダー論がバイアスかかりまくるのは、「性別」という一番身近なアイデンティティを学問しているからなんだろう。だからそれを傷つけられると痛い。だから徹底的な武器を用意して守るのかなぁと思う。

もはやジェンダー論者を科学したい。学問メタというか。

 

↓これ読んでてふと整理したくなったのだった。性別の非対称性を科学したいい本です。