さかなとかえる

徒然なるままに

MENU

自己責任論と他己責任論のはざまで

☆人の成功する要因は、才能ではなく努力なのか?

 

努力すればどうちゃらこうちゃら~みたいなのが正直に言って好きではない。

本田圭佑は典型的な努力すれば成長する、ストイックな人なんだし自分も好きなんだけど。

じゃあサッカーやる環境がなかったらサッカー選手にはなれていなかったし、コーチやチームが走るプレイヤーとしての役割をこだわって与えていても今のようになれていない。(本田圭佑は走るのは遅いと自分でも言っているし、ボールのキープ力が優れている選手なので)

 

努力そのものが好きな人は、実は本田のような成功者タイプだけじゃない。

その逆の、敢えて底辺タイプと呼ぼうか。

底辺タイプもいろいろあるのだが、

努力したけど全然ダメだった~社会が悪い環境が悪い。という考えの人だ(外に向けて言うかはともかくとして)。

彼らは、努力で報われるような社会やシステムを要望している。そういう意味では、努力自体は好きなのである。それが結果にならなかっただけで。

 

ただ、彼らは成功者タイプを嫌う。

理由はわかると思うが、成功者が言う「努力のおかげ」が、全然努力のおかげでないと考えているからである。

環境がよかった、親がよかった、家庭がよかった・・・etc.

「成功しているのは、運がよかっただけだ」という理論である。

 

本田みたいな成功者タイプは好きではないけれど、こうした底辺タイプも好きではない。

「成功しているのは、運がよかっただけだ」という主張が正しければ、

「失敗しているのは、運が悪かっただけだ」という主張も正しいから。

 

人の成功=才能×努力×運(ランダム要素)

簡易モデルとしては、この数式が一番近いんじゃないかと思う。

運というのも、完全にランダムでおみくじみたいなものもあれば、環境要因というのも運になるだろう。そういう意味で、成功者を批判するときに「運がよかったから」という主張も頷ける。

 

努力した成果が出るのは、必ずしも100%ではない。それは自分を客観視できていないため確率が下がったり、ゼロサムゲームなら相手プレイヤーも必死で努力しているからである。

ゲームやスポーツの采配をイメージするといいかもしれないが、勝つために状況に応じてカード(選択肢)を切るわけだ。采配が当たることもあれば外れて絶望する場合もある。

ただ、そのカードを切らなかったり手持ちになかったりしたら100%負けてる。

 

その場合、最後に左右するのは運と言えるのではないだろうか。

もちろん、カードを手配できなかった場合、その環境のせいになるけど。

・勝つためにそのカードをそもそも切らないといけない状況になったのが問題

・カードを手配できなかったのが問題(→これは何が原因かにもよる)

・その確率が低く、もっと努力で上げることができたはずのカード側の問題

とか細かく見たら運以外の要素もあるかもしれないけど。

 

失敗した要因としては、自己責任論者が主張する「努力しないから」というのもなくはないが、「運が悪かった」というのもあると思う。

でも人生はゲームみたいなもので、運要素を完全に排除することはできないしそれを受け入れるべきである。

運が悪くて負けたら、それ以上ない。

 

 

☆じゃあなんで努力さんの地位は高いのか、運くんの地位は低いのか

一言だと、「わかりやすいから」これに尽きるでしょう。

目に見えやすいし、beforeafterが容易である。人間はなぜかギャップというか変化に対しすごく感度が高いように設計されているので、そうなっている。

才能や運といってもバラバラで、小さいときの身長の序列とか思い出してほしいが、身長が伸びる時期が人によって異なるわけだ。その時期を運というかは置いておいて、「中3の時は小さかったのですが、牛乳を飲むようになりよく寝るようになった結果高1までで10cm高くなり、その後身長トップ層になりました。」というのが努力のおかげかというと、疑問になってしまう。ちなみにこの例は私です。

たまたま、伸びる時期がその時だったからという要因が強いのだろうけど、

人に響くのは「たまたま時期が重なったから」というよりも、先ほどの努力アピールをする方なのは明確だ。身長は科学的にも、遺伝子要因が強いことが示されているのでまだこれは才能・運要素が強いと感じるけど。

 

何がいいたいかというと、「小さい頃は下手でいつもベンチでした」というスポーツ選手が「そこから這い上がった」というのはこの身長の話と大して違いがない。

 

小さいころダメだった=才能がない、というのは間違いで、むしろ大人になってから才能が開花する人もたくさんいるのではないだろうか。

でも、それを才能ではなく努力のおかげと語ることで、今ベンチにいる少年少女を勇気づけて腐らせないようにすれば、将来その中のほんの一部だけど、確かに這い上がれるというか続けられ才能が開花する人はいる。そういう意味では、全くの害悪というわけでもない。

ただその言葉を受け取って頑張り続けることにした99%以上の才能のない人は、結果として得られるのは続けた思い出と、残酷な事実の知識ぐらいだ。スパっと諦めて、他の分野で才能があったかもしれないところへ飛び込んだ方が成功したのかもしれない。これも運でしか片付けられないが。

 

底辺タイプの改善点ではあるのだけど、「努力だけなら精一杯してきた」というのは最低条件でしかない。多くの人は、「努力すれば報われる」というマインドのもとに親や学校から教育を受けているために精一杯努力し続けている。

 

 

☆じゃあ成功するには、幸せになるには

人の成功=才能×努力×運(ランダム要素)

バランスよく注力するべきである。

自分の才能を見つけること。

才能を活かすために、成功する確率を少しでも上げるために努力すること。ただこれは言われなくてもみんなやっているので実は差別化しにくい。

運をどう頑張るかというのだけど、考えの仕方というのもある。

例えばリクルートに新卒で就職したいのであれば、何千何万の応募が来て合格率はどれくらいというのを知っておくことだったり、

その年の採用人数が100人だけど欲しい人がこの年はたまたま200人だった場合、やむを得ず、運が悪く100人は希望が通らなくなる。他の年なら希望が通ったかもしれない。これもまた運である。

 

100%成功する方法を考えているのは無駄で、そんなものはないしそう考えるから何もできなくなる。

確率の世界に飛び込み、「運が悪かった、よかった」と思えるところまで必死になることしかできない。

受験世界での、模試なんかの志望校合格判定がABCとあるが、あれのいいところは、A判定でも合格可能性が80%であり100%ではないし、Eでも0%というわけでもないこと。

責任逃れかのように思うかもしれないが、センターA判定だった人が二次が悪くて落ちたり、その逆が実際にあるからあのような判定になっている。もちろん少ないけど。

 

志望校の科目や問題を分析して自分はここで点を取ると戦略を立て、そのための努力をしても不合格になる人はいくらでもいるしその人を咎めるなんてこともない。リクルートの例と同じような定員問題もあるだろうし。

そこで「運が悪かった」と済ませられるか、「この年のこの大学の倍率が高いのは大学のせい、他の大学の要因、国のせい」などと押し付けるかはもはやマインドの問題でしかない。

 

ルサンチマンマインドだと、成功しようが自分の希望を100%叶えられないと幸せにならない。

そもそも、成功しようと考えすぎていること自体が幸せから遠ざかっているのだけど、またこれは別の話。

 

成功したのは運がよかったから、

失敗したのは運が悪かったから。

運で済ませてしまうと残酷に感じてしまうかもしれないが、現実は残酷なのである。

 

私たちはカードを探し、それを使って成功できる確率を計算しながら、人それぞれのロジック(安全思考から一発逆転思考かなど)でカードを切ることしかできない。確率なんて所詮0と1のはざまだからたいして変わらないけど、その小さな違いを見つけ、あとは天に祈るのみ。人生なんてちょっと複雑なじゃんけんゲー・運ゲなんだ。

 

ただ、その運がひたすらにいい人もいるし、ひたすら悪い人もいる。環境がものすごくひどかったり。その人たちからすると納得はできないんだろうなぁと思うものの、普通で不自由なかった私にはわかることができないのは悔しくもある。

 

☆関連記事

jmath.hatenablog.com